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『となりのカフカ 』を読んだ  夢と日記と現実描写による秀才なのか

『となりのカフカ』(池内紀)を読んだ

労災専門の保険公社に務める小説家フランツ・カフカが、正に隣にいるかのように感じられる名著だ
池内さんの無駄を省き・要旨を確実に伝える文章力は圧巻。もちろん、研究者としての圧倒的な見識が前提となっているわけだけれど

なかなか優秀な職員だったようだけれど、遅刻直前(直後?)に息を切らせて階段を駆け上がる姿は、さながら『変身』前のグレーゴル・ザムザを思わせる
家族を支える働き手であるという点もそうだけれど、変身願望は常にあったんだろうなーと想う
処女発表著作が鋸の角形と丸形との危険度の違いを述べた業界向けの文章だったというのには驚いた
働きながら夜間・休日のみを使っての執筆は、寝る間を惜しんだ過酷なものだったろうと容易に想像が出来る


blogなので第10章「日記のつけ方」について書きたい

ひとりごとのつぶつぶ
http://macaroni04.exblog.jp/

カフカの日記は変だ
どこが変かと言うと、日記は普通、個人の日々を記すためのものなのだけれど、そういった記述は一切ない
また、1912年から1914年の僅か2年のうちに、全ての日記の3分の1を書いていたという偏りぶりが見受けられる。この時期は、初の長編小説『失踪者』や『変身』の執筆、二番目の長編『審判』にとりかかっている時期だというのだ
更におかしいのは、どうやらこの日記、ぱっと見ではただの日記であっても、実は日記ではなくて小説の出だしだというのだ

見たところ日記の記述のようだが、実は日記ではなくて小説の出だしらしい。というのは一行目はまったく同じで、二行目から少しずつ変わってくる。そういったのが三つ、四つとつづいたりする。人は日記に手を入れることはあっても、三度四度同じ書き出しにしたりはしないものだ
(中略)
カフカの日記が、およそふつうの日記とちがうことがおわかりだろう。ここには日常の記録と小説の断片とが混在している。日記なら記述を適当に切り上げられるが、小説が進み出せば、勢いのままに書き続けるしかない。どんな余白でもかまわなかった。

つまりは、さながら「日記兼創作ノート」のような日記だったというのだ
明らかに普通の日記と創作ノートは分けた方が効率は良いのに・・・。有能な労災保険に携わる男というのと、数字や物事の整理が下手クソな男というギャップがここにあり、非常に面白い
・・・・と、書くと鬼才はやっぱり違うねーという話で終わりそうなんだけど、次のような記述が同章にされているじゃないですか

現実の記憶と夢の風景とが入りまじっている。あるいは逆かもしれない。夢のシーンを借りることによって、ようやく現実の記憶を表現にまでもっていける。日記はこの点、なかなか調法である。夜見た夢を、すぐさま書きとめることができる。夢の記憶を克明に追うなかに、新しい文学的可能性がひそんでいないか。

この夢と現実が入り乱れる構造を取り入れた事により、「不条理であれど、リアリティのある描写」を獲得出来たと言われれば、なるほどと合点が行くじゃないか
作家の日記というのはバカにならないんだね。ああ、好きなだけ日記書いてよ、刈馬カオス。俺が悪かった。俺が悪かったよ
もちろん、昨日台本を完全脱稿したからこんな事言っているわけですが


となりのカフカ(光文社新書 164)
池内紀著

by macaroni-2004 | 2004-09-15 04:40  

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